クリエイターを、「食業」に。

サウンドクリエイターとしてフリーで活動する楽曲制作者、NR-Takaの、クリエイター問題に対してあれこれ考え、書き連ねるブログです

創作に才能は必要か

皆さん、おはようございます。

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イラスト、音楽、漫画、文章…

様々なクリエイター活動において出てくる、「才能」の文字。

特にクリエイター業を主軸と人にとって、この才能という存在は物議を醸す存在であります。

果たして、クリエイター業や芸術分野などにおいて、才能とは必要なのでしょうか…

 

結論から言うと必要です

そりゃ才能は必要です。

あたりまえじゃないですか。

才能を売りにしているのがクリエイター業であって、芸術分野なのですから。

 

でも、ここで記事を終わらせる訳にはいかないですし、肝心な物事が抜けています。

果たして、度々出てくる「才能」の正体とは、一体何者なのでしょうか。

才能の定義を考える

ぶっちゃけて言えば、その分野における仕事の実力だと思います。

つまり、いい仕事をするからその人は才能があるわけです。

でも、今現在その分野の仕事をしている人でも、最初から今現在の評価させるような才能はあったのでしょうか。間違いなく無いでしょうし、最初からあったと言われるような人は、仕事をする前にそれだけの才能を培っているわけなので、何もしなくとも才能があるという状態はまずありえないでしょう。

制作に必要な知識や技術、それを遺憾なく発揮するための感性、そして経験…これらは全て、仕事のために費やした時間がもたらすものです。

ドラクエの勇者も最初はレベル1

ロトシリーズ(1・2・3)については、ゲーム開始直後に「ラスボスを倒して来い」と言われるわけです。なけなしの装備と僅かな金を渡されて。当然ながら、最初のステータスではラスボス打倒はおろか、ちょっと遠出した地方の敵すら倒せません。貧弱です。

でも、旅をしていくに連れて、装備が充実し、レベルが上がり、能力が上がり、呪文を憶え、そして一人前の勇者と認められて、ラスボスの打倒に至る…その姿を見た時、間違いなく彼らは勇者と認められ、賞賛を受けるわけでしょう。

これと同じだと思います。

誰だって最初はレベル1です。だから、レベルを上げ、装備を充実させ、スキルを憶え、その分野における才能を積み上げるわけです。

もしかしたら、勇者と呼ばれた彼らも、冒険の最中は「あいつは才能がないだろうな…」と陰口を叩かれていたのかもしれません。始まりの街のすぐ近くで、最弱のモンスターを相手に苦戦し、傷を重ねている姿を見れば、そう思われるのもおかしくはないでしょう。

才能と似たようなもの「適性」

才能とは、その仕事をする上での絶対的な実力です。

その正体は、仕事をする上で必要な心技体、そして経験であると言えましょう。

当然ながら、仕事をすればするほど、才能は積み上がっていきます。

 

では、万人が万人、時間さえ積めば才能を培うことができるかというと、その答えはNoです。仮に未経験者100人を同じ空間に集め、同じ機材を与え、1日10時間、同じ職業訓練をしたとしても、100時間経過後には100人が全くバラバラのステータスを持っているでしょう。当然、実力に差が出ますし、同じ実力でも、得意不得意が出てくるでしょう。閉鎖的な空間を想定してそれですから、当然現実に当てはめると、その偏差はもっと大きくなります。

それが、いわゆる適性です。

就職活動をしたり、運転免許を取得したりした方は、適性検査をくぐった経験があるでしょう。気分の浮き沈みが激しい、心配性である、事務的な仕事に向く、営業に向く、コミュニケーションが苦手、好きなことにはとことん集中できる…

また、仕事をする上でも、仕事の飲み込みが早い・遅い、PCの扱いが得意・不得意、コミュニケーションが得意・苦手といったような個性があると思います。

おそらく、世間一般で言われる「才能がある・才能がない」というのは、「適性がある・適性がない」ということなのではないでしょうか。

しかし、レベル1から10000の経験値を与えた時、Aさんはレベル15、Bさんはレベル8である場合、Aさんに才能があると言われます。しかしそれは、あと10000の経験値を与えた時に、Aさんがレベル20、Bさんがレベル10という、単純な1次方程式での能力上昇を意味するのでしょうか。もしかしたら、10000の経験値を更に与えた時、Aさんはレベル20になるけど、Bさんはレベル16になっているかもしれないし、更に10000の経験値を与えれば、AさんとBさんがレベル25で並ぶかもしれない…この成長曲線も十分適性というに相応しいでしょう。

それに、専門的な仕事であれば、適性の有無に関わらず、時間を積んで修練すれば十分に才能を積むことはできます。同じぐらいの才能がある人を2人並べても、どちらが適性があるかないか、それを判断するのは難しいでしょう。余程のことがない限り、適性の有無自体がプロであるかないかを左右したり、実力差足らしめるような事態は考えにくいと思われます。

但し、適性を考える必要がないかといえば、そんなことはありません。

適性がなければ、同じだけ才能を積むのにも時間がかかるわけですし、レベルが上がれば適性が急激に良くなるとしても、そこにたどり着くまでに挫折してしまう可能性も高くなるでしょう。

才能がないという言葉には耳をふさげばいい

これに尽きます。

才能がないというのであれば、もっと自分を磨けばいい。そのために知識を積み、技術を培い、完成を養う…そうすれば自ずと才能はついてきます。才能がないと言われ、落ち込んでいても才能は自然と培いはしません。

もっとも、才能があるかないかを判断する人の判断基準にも委ねられることがあるので、才能は十分にあっても弱みを見られて才能がないと言われることもありますし、得意分野だけを見られて才能があると判断されることもあるわけですが。

なので、才能がないという言葉には耳を貸さず、ストイックにあるべきだと思います。マイナスにしかならない言葉にいちいち反応するだけ無駄です。

もしも執拗に才能がないと言ってくる人がいるとすれば、それは「才能がないからやめちまえ」と貶めることを目的とするだけなので、関わらないほうがいいでしょう。もしあなたの為を思いそう言うのであれば、なぜわざわざ汚い言葉を選ぶのでしょうか。

 

才能がないと思うのであれば、才能を培えばいいまでのこと。

しかし、才能を培うために行動すること、心持ちを保つこと、今自分にどれだけの才能が有るのかを客観的に把握すること…これらもまた、才能なのかもしれません。